AGURI UCHIDA

画家、内田あぐりのブログ

年の瀬にドローイング調査

 

4日間にわたるドローイングの調査が終了しました。

おかげでドローイングケースの中も棚も収納箱も整理整頓してもらえて、捨てたと思ってた初期の作品の大下図も全部見つかったり、傍で見ててもすごい濃い4日間でした。

1970年から2018年までの気の遠くなるようなドローイングの分量に眩暈がして、自分が描いたものとは思えなかったりするのでした。

それにしても若い美術館スタッフの方々、記録のために一枚一枚写真を撮ってくださって、年代別に整理して、それを全てデータ化して、かなりハードな仕事をしてくださったこと、感謝してます。

どうもありがとうございました。

 

 

 

f:id:aguriuchida:20181226230002j:plain

 

f:id:aguriuchida:20181226230046j:plain

 

 

 

蘇生

 

学生時代に描いた50号の絵、大学2年生の頃だったから、今から50年近く前の作品でしょうか。

パネルから剥がして、巻いて、長い間そのまま放置をしていたので、ボロボロの状態でした。

画面には折り皺と無数の深い亀裂と、傷跡と、もうこのままダメになるかもしれないと、それでもアトリエの壁に長く貼っていたのです。

 

昨日、その絵の修復と裏打ちをしました。

手伝ってくれたのは為壮さん、彼にはいつも手伝ってもらってるので頭が上がらない!

 

作品を裏返しにすると現れた別の絵、表の絵は描きかけの絵の上にきっと描いたのですね。

線描の裸婦のシルエットが現れてきたのでびっくり。墨の線がしっかりと残っていました。

 

f:id:aguriuchida:20181209110131j:plain

 

f:id:aguriuchida:20181209110424j:plain

 

f:id:aguriuchida:20181209110921j:plain

 

f:id:aguriuchida:20181209111212j:plain

 

 

f:id:aguriuchida:20181209111525j:plain


 

 

 

立つ女

 

日本経済新聞に掲載していただきました。

ワトソン紙をパオブラジルの染料で染めてあります。他はグワッシュを使用。

「水郡線にて」小池光さん(歌人)の文章がとても素敵でした、いつか私も水郡線の旅をしたくなりました。

小池さんの歌集に「時のめぐりに」「思川の岸辺」、著書に「歌の動物記」

 

f:id:aguriuchida:20181202112123j:plain

 

オーギュスト・サンダー

 

タイトル「彫刻家の妻」

NYのギャラリーで購入したサンダーのオリジナルプリント。

裏面にエディションナンバー入り。

 

この時期、メトロポリタンミュージアムで大々的なサンダーの展覧会を開催してて、とても感動的だった。その時に出版されたサンダーの画集が本当は欲しかったけど、高くて持って帰るのには重すぎて買えなかったのです。

この写真、その時の画集とほぼ同じ金額だったので、それならオリジナルの方が良いと買ったわけなのです。

 

f:id:aguriuchida:20181120212426j:plain

鬼の霍乱

 

先週から寝込んでしまった!

大学が芸祭週間で休みだったからよかったものの。

 

f:id:aguriuchida:20181030181839j:plain

  

f:id:aguriuchida:20181030182003j:plain

 

とはいうものの、昨日は点滴を病院でされるやいなや、記念にパチリ。超具合が悪いのに、こういうの心と体は裏腹っていうんでしょうかね、いい加減に自分でも呆れます。

今日は友人が遠隔操作でハンドパワーを送ってくれたせいか、なんだか回復、まさかの友情念力?なのでした。

 

タルコフスキーの長い映画を眠りながらでも見れる欲望が出てきたのです。

ウイルス性の風邪、なかなか厄介で治りづらいので、皆さんも気をつけてください。

 

f:id:aguriuchida:20181030182302j:plain

 

ブログを書けるようになったので、かなり回復の兆し。

今夜は頑張っておかゆに豆腐の味噌汁をいただくことにします。

 

f:id:aguriuchida:20181030182520j:plain

10月の覚え書き「素描論のためのマドリガル」

 

「見えること」よりも「ものの見方」が大事とは、セザンヌやマルセル・デュシャンも、それぞれに強調していた極意ではないか。その認識は、遠くギリシアのイデアに、ヴァザーリの素描論やレオナルドのカルトンと響き合う。素描/ドローイングとは、世界を見ようとする意志によって、世界を開くための不断のエクササイズであり、時を超えてつづく遊戯なのだろう。

 先のエッセイ集の中で、美術史家のエドガー・ヴィントの言葉を借りて、レヴィ・ストロースも幻滅を漏らしている今日のスペクタルな展覧会の氾濫、写真や映像を濫用したそのコンテンツには、情報資本主義の畜群としてブラインド化された観衆の影が、プラトンの<洞窟の比喩>のように映っている。

 ニスや修復の絵の具の層に覆われた美術館の仄暗いタブローの森のなか、変色した紙葉に浮かぶサンギーヌ(代赭色のチョーク)や銀筆の描線、あるいは展示ケースに開かれた画帳に走る墨線の消息に出会うとき、それが描かれた、失われたはずの時に響いていた画家の脈拍を自分の内に聴いて、生気を取りもどすのは、ひとり自分だけの幻覚なのだろうか。

 

                      鷹見明彦(美術評論家)