年の瀬にドローイング調査
4日間にわたるドローイングの調査が終了しました。
おかげでドローイングケースの中も棚も収納箱も整理整頓してもらえて、捨てたと思ってた初期の作品の大下図も全部見つかったり、傍で見ててもすごい濃い4日間でした。
1970年から2018年までの気の遠くなるようなドローイングの分量に眩暈がして、自分が描いたものとは思えなかったりするのでした。
それにしても若い美術館スタッフの方々、記録のために一枚一枚写真を撮ってくださって、年代別に整理して、それを全てデータ化して、かなりハードな仕事をしてくださったこと、感謝してます。
どうもありがとうございました。
日本画の歴史 現代篇
草薙奈津子さんの執筆です。私のことも書いていただいています。
蘇生
学生時代に描いた50号の絵、大学2年生の頃だったから、今から50年近く前の作品でしょうか。
パネルから剥がして、巻いて、長い間そのまま放置をしていたので、ボロボロの状態でした。
画面には折り皺と無数の深い亀裂と、傷跡と、もうこのままダメになるかもしれないと、それでもアトリエの壁に長く貼っていたのです。
昨日、その絵の修復と裏打ちをしました。
手伝ってくれたのは為壮さん、彼にはいつも手伝ってもらってるので頭が上がらない!
作品を裏返しにすると現れた別の絵、表の絵は描きかけの絵の上にきっと描いたのですね。
線描の裸婦のシルエットが現れてきたのでびっくり。墨の線がしっかりと残っていました。
立つ女
日本経済新聞に掲載していただきました。
ワトソン紙をパオブラジルの染料で染めてあります。他はグワッシュを使用。
「水郡線にて」小池光さん(歌人)の文章がとても素敵でした、いつか私も水郡線の旅をしたくなりました。
小池さんの歌集に「時のめぐりに」「思川の岸辺」、著書に「歌の動物記」
オーギュスト・サンダー
タイトル「彫刻家の妻」
NYのギャラリーで購入したサンダーのオリジナルプリント。
裏面にエディションナンバー入り。
この時期、メトロポリタンミュージアムで大々的なサンダーの展覧会を開催してて、とても感動的だった。その時に出版されたサンダーの画集が本当は欲しかったけど、高くて持って帰るのには重すぎて買えなかったのです。
この写真、その時の画集とほぼ同じ金額だったので、それならオリジナルの方が良いと買ったわけなのです。
鬼の霍乱
先週から寝込んでしまった!
大学が芸祭週間で休みだったからよかったものの。
とはいうものの、昨日は点滴を病院でされるやいなや、記念にパチリ。超具合が悪いのに、こういうの心と体は裏腹っていうんでしょうかね、いい加減に自分でも呆れます。
今日は友人が遠隔操作でハンドパワーを送ってくれたせいか、なんだか回復、まさかの友情念力?なのでした。
タルコフスキーの長い映画を眠りながらでも見れる欲望が出てきたのです。
ウイルス性の風邪、なかなか厄介で治りづらいので、皆さんも気をつけてください。
ブログを書けるようになったので、かなり回復の兆し。
今夜は頑張っておかゆに豆腐の味噌汁をいただくことにします。
10月の覚え書き「素描論のためのマドリガル」
「見えること」よりも「ものの見方」が大事とは、セザンヌやマルセル・デュシャンも、それぞれに強調していた極意ではないか。その認識は、遠くギリシアのイデアに、ヴァザーリの素描論やレオナルドのカルトンと響き合う。素描/ドローイングとは、世界を見ようとする意志によって、世界を開くための不断のエクササイズであり、時を超えてつづく遊戯なのだろう。
先のエッセイ集の中で、美術史家のエドガー・ヴィントの言葉を借りて、レヴィ・ストロースも幻滅を漏らしている今日のスペクタルな展覧会の氾濫、写真や映像を濫用したそのコンテンツには、情報資本主義の畜群としてブラインド化された観衆の影が、プラトンの<洞窟の比喩>のように映っている。
ニスや修復の絵の具の層に覆われた美術館の仄暗いタブローの森のなか、変色した紙葉に浮かぶサンギーヌ(代赭色のチョーク)や銀筆の描線、あるいは展示ケースに開かれた画帳に走る墨線の消息に出会うとき、それが描かれた、失われたはずの時に響いていた画家の脈拍を自分の内に聴いて、生気を取りもどすのは、ひとり自分だけの幻覚なのだろうか。
鷹見明彦(美術評論家)